資料番号 № 0001
検針
I
二十四日、ヴィクトル・イリイチ・シュミーロフは台所のテーブルについた。一九九四年から、毎月そうしてきた。前には帳簿と懐中電灯と老眼鏡がある。
帳簿は分厚く、緑のクロス装だ。罫線は自分で引いた。日付、電気、ガス、水、湯。最後の三つはメーターが付いたときに増えた。それまでは外の気温と血圧を書いていた。升目を空けておきたくなかったのだ。鉄道の配車指令所で三十年働いて、ひとつの決まりが身についた。動きはすべてグラフに書く。書かなければ、無かったのと同じだ。
この団地は、どの部屋も風呂とトイレが一緒だ。ヴィクトル・イリイチは便器の裏の点検口を開け、懐中電灯で照らした。水、四十一・三一八。湯、二十九・六〇四。
台所に戻って書き込んだ。先月の数字を引いた。しばらく数字を眺めていた。
湯が三・八立方メートル。
ひとりでそんなに使うはずがない。春のうちに計算してあった。そのころ初めて自分で請求書を見るようになった。前はニーナの仕事だった。自分の風呂は兵隊並みに早い。皿は水ですすぐ。洗濯機は水の管から水を取る。一・五立方、多くて二。三月から七月までは一・五だった。
八月は三・八。九月は三・九。
ニーナがいたころは四だった。
帳簿を閉じた。冷蔵庫のリレーがかちりと鳴るのを、長いこと聞いていた。ニーナは六時四十分に起きた。パン工場のシフトまで一時間二十分ある。シャワーは二十分、長いと二十五分。そして中で歌った。彼は壁の向こうで横になり、ガス湯沸かし器の唸りを聞いた。のちに湯沸かし器は外され、給湯が来た。それからは縦管が唸るようになった。ニーナはタオル地のバスローブで、桃色になって出てきた。彼はその背中にぼやいた。「ニーナ、うちの金をみんな排水管に流す気か」。彼女は笑った。「おかげで、きれいな奥さんでしょう」
二月に彼女は逝った。それから七か月半になる。
日曜日には、チュメニからアンドレイが電話をかけてきた。血圧はどうか、ちゃんと食べているかと聞く。ヴィクトル・イリイチはどちらにも「大丈夫だ」と答えた。それから二人とも黙る。アンドレイが言う。「じゃあ、父さん、これからシフトなんだ」。メーターのことは息子に話さなかった。父親が小銭を数えていると思われる。実際、数えていた。
朝、管理会社に電話した。受付の娘は話を聞き、キーボードを叩いた。メーターは検定の時期でしょう、と言う。点検員の出張が八百ルーブル。検定に通らなければ交換。さらに千九百ルーブルと工賃がかかる。
ヴィクトル・イリイチは言い返した。「でも狂ってはいないんだ。ちゃんと回っている。見たんだ」
娘は悪気もなく答えた。「じゃあ、使ってるんですよ、お客さん」
彼は電話を切った。受付係と言い争うのは、指令員の誇りが許さなかった。
II
指令所でやるのと同じことをした。グラフをつけ始めたのだ。
朝七時から夜十一時まで、一時間ごとに点検口を開けた。湯の数字は別のノートに書いた。方眼の学習ノートだ。二日目の夕方には、時刻表のようにはっきりした。昼間、メーターは止まっている。夜、自分が風呂を使うと四十か五十リットル進む。そして夜十一時から朝七時までに、さらに百十リットル。百二十リットル。
目覚ましを五時にかけ、三十分ごとに書くことにした。どうせ眠れなかった。
六時三十分から六時四十分まで、〇。
六時四十分から七時十分まで、百十七リットル。
ヴィクトル・イリイチはその一行を見つめた。唇がしびれた。わかってはいたのだ。初日からわかっていた。言葉にしないようにしていただけだ。機関士も、列車がもう止まりきれないことはわかる。それでもブレーキを握っている。
配管工を呼んだ。来たのはルスタムだった。ニーナがいたころ、蛇口を替えてくれた男だ。日に焼けて、短いあごひげ。煙草と機械油の匂いがする。ルスタムは縦管を叩いて回り、バルブを確かめた。懐中電灯を持って浴槽の下にもぐった。メーターを長いこと見ていた。
それから体を起こし、手を拭いた。「バイパスはありません。よそのお湯が流れ込んでるわけじゃない。メーターも正常です。夜中に蛇口から漏れてるとか?」
「乾いてる。確かめた。蛇口の下に一枚ずつ紙を敷いたんだ」
ルスタムは肩をすくめて笑った。冗談でも言いかけたらしい。ヴィクトル・イリイチの顔を見て、やめた。
二十八日の朝、ヴィクトル・イリイチは廊下で丸椅子に座っていた。正面は開け放した浴室の扉だ。暖房はまだ入っていない。肌着の上にコートをはおっていた。懐中電灯の光がメーターのガラスに当たっている。点検口の扉は、わざと開けておいた。
六時三十九分。上の階で水を流す音がした。中庭で誰かが車を暖めている。六時四十分。
文字盤の赤い小さな羽根車が震えて、回りだした。
彼は立ち上がり、近づいた。シャワーはフックに掛かったまま、乾いている。蛇口は閉まっている。混合栓に手のひらを当てた。冷たい。メーターのそばの管に当てた。熱い。中を湯が流れている。手のひらでわかる。他人の手首で脈をとるときに似ていた。湯は流れているのに、どこにも出てこない。
しばらくそこに立っていた。羽根車は回りつづけた。扉を開けたままの冷えた浴室に、カモミールの匂いがした。ニーナのシャンプーだ。カモミールの絵の黄色いボトル。三月に、棚の物と一緒に捨てた。見ていられなかったのだ。
七時十分、羽根車は止まった。
III
三階のタマーラ・グリゴーリエヴナが、郵便受けのところで彼をつかまえた。四十年、真下の部屋に住んでいる。パン工場でニーナと一緒だった。通夜では誰より大きな声で泣いた。
彼女は入口の扉をちらりと見た。「ヴィーチャ、余計なことを言ってごめんね。責めてるんじゃないのよ。男ひとりじゃ暮らせないもの」
彼には意味がわからなかった。「何の話だ」
「ほら、あんたのとこの人よ。朝、来てる人」
タマーラ・グリゴーリエヴナはきまり悪そうにした。
「歌ってるでしょう。縦管が一緒だから、全部聞こえるの。ニーナそっくりで、本当よ。最初は思わず座り込んじゃった。歌まで同じ。『ああ、まだ宵じゃない』」
ヴィクトル・イリイチはガスの請求書を手にしたまま、それを見つめていた。
「ただね、歌詞を間違えるの。言ってあげて。ニーナはあんなに上手だったのに。あの人、外国人が歌ってるみたい」
家に帰ると、浴槽の縁に腰を下ろした。長いこと縦管を見ていた。便器の裏の管は、十二回ほど塗り直されている。最後は自分でベージュのエナメルを塗った。その下から、古い塗りの垂れが透けて見える。切り株の年輪のようだった。
翌朝は廊下に座らなかった。六時三十五分に浴室に入り、扉を閉めた。管に耳を当てた。
はじめは唸りだけだった。縦管にいつも住んでいる、何階分もある深い唸りだ。六時四十分、唸りが変わった。節がまじりはじめた。声と呼ぶのはむずかしい。濡れた指でコップの縁をなぞると、コップが歌う。あの音だ。ただ、その指はずっと下にある。地下室か、もっと下に。
「ああ、まだ宵じゃ、なあい……宵じゃ、なあい……」
最初の一音でわかった。真ん中で落ちる癖。のばした母音。あんなふうに歌うのはニーナだけだ。
「……ろくに眠れぬ、夜だったあ……」
次はこう続く。「ああ、夢に見えたのは」。この歌は三十一年聞いてきた。ニーナは毎朝これを歌った。最初は憎らしかった。やがて耳に入らなくなった。そしてこの数か月、夢の中で聞いていた。
管の中の声が歌った。
「ああ、夢に……夢に、み……みたされた」
ヴィクトル・イリイチは管から耳を離した。頬が熱く、結露で濡れていた。
外国人が歌ってるみたい。
羽根車が止まるまで、便器のふたに座っていた。あれが何なのかは考えなかった。考えたのは、真ん中で落ちる癖のことだ。なぜあれを知っている。あれはニーナの歌い方だ。そこで昨夜のことを思い出した。風呂で、気づかないうちにあの節を口ずさんでいた。二月以来、初めてだった。真ん中で落として。歌詞はなしで。
土曜日、団地の世話役の女性から地下室の鍵を借りた。自分の部屋のバルブを見たいと言った。ルスタムに頼まれたことにした。
地下室は暖かく、湿っていた。電球は一つおきにしかついていない。足もとで水がぴちゃぴちゃ鳴った。グラスウールとルーフィングを巻いた管に沿って歩いた。番号はコンクリートにじかにペンキで書いてある。やっと自分の縦管を見つけた。「15、12、9、6、3号室」。同じ階段の部屋が、縦一列に並んでいる。
ほかの管は壁づたいに水道メーター室へ向かっていた。この一本だけが床に入っている。割れたレンガで縁取った、丸い穴にまっすぐ。
ヴィクトル・イリイチはしゃがんで、穴の中を照らした。光は闇に吸いこまれ、何にも当たらない。底も、水も、管の曲がりも見えない。下から暖かい空気が上がってくる。濡れたコンクリートと錆の匂いがした。こういう建物の下には、一メートルほどの床下がある。せいぜい一メートル半だ。その先は土になる。三十年、線路の図面を見てきた。人が造ったものがどんな姿か、よく知っている。どんなものにも標高があり、深さがあり、終わりがある。
床からレンガのかけらを拾って、穴に落とした。
当たる音を待った。次に水音を待った。それからただしゃがみこんで、膝がしびれるまで待った。唸りに耳をすませた。唸りは上から下りてくるものだと、ずっと思っていた。唸りは下から来ていた。
当たる音はしなかった。
IV
やめることもできた。それははっきりわかっていた。指令所にいたころと同じ、冷えた頭で。車軸が焼けた列車は待避線に入れる。分岐駅まで引っぱったりしない。
三十日の夕方、彼はシャワーの下に立った。タイルを見つめ、小声でその一行を歌った。
「ああ、夢に見えたのは」
かすれた声だった。タイルが音を返してきた。恥ずかしくなった。扉の外に他人が立っているときのように。
翌朝、管の中の声はその一行を正しく歌った。
一週間かけて教えた。一晩に一行ずつ。バス停のそばの店でシャンプーを買った。カモミールの絵の黄色いボトル。同じものだ。まだ売っていた。それを棚に置いた。洋服簞笥から彼女のバスローブを出した。ターコイズ色のタオル地で、ポケットに糸のほつれがある。扉の裏のフックに掛けた。寝る前には廊下に立ち、浴室に向かって歌った。それから横になり、眠らずにいた。部屋じゅうが起きているような気がした。
あそこにニーナがいないことは、わかっていた。ニーナは踏切の向こうの市営墓地に眠っている。管理小屋から四列目。囲いの中の土は、まだ沈みきっていない。管の中で歌うものは、彼が教えるまで歌詞を知らなかった。彼が口ずさむまで、節も知らなかった。こちらが渡したものを受け取るだけだ。水が器の形になるのと同じだ。
それでも六時四十分になると、部屋に唸りが満ちた。カモミールの匂いがした。三月には、それさえなかった。
十月二十四日、点検口を開けて数字を書いた。湯、五・二立方メートル。台所の水も一・五増えていた。誰かが皿を洗っている。水切りかごには、カップが一つ、皿が一枚、フォークが一本。どれも乾いていた。
帳簿を前にして、数字が書けなかった。三十二年で初めて、手が動かなかった。書けば、この部屋に二人住んでいると認めることになる。
それから書いた。書かなければ、無かったのと同じだ。
V
その朝、彼を起こしたのは水の音だった。
暗がりで目を開け、すぐにわかった。シャワーが出ている。水がエナメルを打っている。三十一年聞いてきた音だ。聞き違えるはずがない。携帯の時計は六時四十一分だった。
裸足で廊下に出た。浴室の扉の下から湯気が漏れている。床のリノリウムに落ちた光の帯の中で、湯気がゆっくり渦を巻いた。煙のようだった。扉は閉まっていた。この何週間か、毎晩開けておいたのに。
歌はなかった。水の音だけだ。やがて水が止んだ。シャワーから滴が落ちる音がした。それから、彼女の声がした。すぐ近く、扉のすぐ向こうで。三十一年、毎朝、何も考えずに口にしていた、あの調子で。
「ヴィーチャ。タオル取って」
彼は立ったまま扉を見ていた。掛け金は一九八九年に自分で付けた。真鍮製で、固い。内側からしか掛けられない。
タオルは廊下の放熱器に掛けてあった。温まるように、いつもそこに掛けておいた。彼女は温かいタオルが好きだった。
寝室に戻ればいい、と彼は思った。横になって、頭から毛布をかぶる。七時十分になれば終わる。夜には歌わない。チュメニの息子に電話してもいい。アンドレイは言うだろう。「父さん、どうしたんだよ。なあ、俺がそっちに行くから」。そして来ない。北の現場の交代勤務がある。請求書のことを考えた。それから、声のことを考えた。あの声は、彼が教えたことしか知らない。最後のひとことまで。「タオル取って」は、一度も歌って聞かせたことがない。
扉の向こうで声がした。「ヴィーチャ。寒い」
熱い湯気が足もとを這った。
掛け金がかちりと鳴った。
扉が枠から指一本ぶん離れた。それ以上は開かなかった。すきまの奥は暗い。誰かが浴室の明かりを消したのだ。カモミールの匂いが流れてきた。その下に、濡れたコンクリートと錆の匂いがあった。地下室の、管が吸いこまれていく床の穴の匂いだ。
ヴィクトル・イリイチは放熱器からタオルを取った。温かかった。
三十一年そうしてきたように、すきまからタオルを差し入れた。向こう側で、誰かがそれをつかんだ。指は濡れていて、冷たかった。そして、離さなかった。
点検口の小さな扉の奥で、赤い羽根車が回りつづけていた。
台所の緑の帳簿では、十一月の「湯」の升目が、空いたままになった。